在外教育施設派遣教員帰国報告書
 
遠くて遠い国と近くて遠い国での3年間
〜中東カタール,ドーハ日本人学校から社会主義中国,上海日本人学校へ〜
 
幕別町立札内中学校  
猪 股 宏 亮  
 
はじめに
 
 派遣地の名前を聞いたとき,目の前が暗くなるほどの衝撃であった。まさに「ドーハの悲劇」であった。テロリズムと酷暑のイメージしかない中東への派遣は,「派遣先は問わず。」と,希望を出したものの,もっとも避けたい派遣地だったのである。
 赴任1年後の入学式の翌日,生徒数の減少を理由にドーハ日本人学校の休校が決まった。始業と休校の作業を並行しながら,慌ただしい1学期を送った。休校後は帰国待機と思っていたが,休校日まで1ヶ月を切った頃,上海への赴任命令が下りた。心の準備もできないまま,上海日本人学校に赴任した。
 戦渦に巻き込まれたイスラム国カタールと経済成長著しい社会主義国中国,全く異色の2つの国での仕事と生活の中から学び,感じたことを徒然なるままに記してみたい。
 
 
1,砂漠の自然 ~Simple is the best~
 
 どこまでも真っ平らな砂漠に,真っ赤な太陽が沈んでいく。雨も雲もない砂漠で365日,毎日くり返されるドラマチックな昼と夜の交代劇に魅せられ,郊外へと何度も車を走らせた。
 日没の太陽は,砂塵の影響で真っ赤に染まりながら砂漠に沈んでいくのである。そして,日没の瞬間にモスクからお祈りを呼びかける哀愁を帯びた「アザーン」が聞こえてくるのである。
 古代エジプトでは,太陽神ファラオが絶対唯一の神であった。この太陽を見て,ムスリムでなくとも祈りたい気持ちになった。
 アザーンが終わると,まるで扇を閉じるかのように,光と闇の交代がなされるのである。このシンプルながら非常にドラマチックな情景と,ムスリムの祈りとが見事に調和しているのである。砂漠に見つけた様々な生き物や現象の中で,もっとも心に残ったのが日没であった。
 
 
2.酷暑
 
 最高気温49.5度。路面近くの温度は60度を超えた。砂漠の砂は夕方5時をすぎても
60度を下回らない。1年を通して快晴の日々が続き,派遣期間に降った雨はわずか2回。しかも,2年ぶりの雨であった。
 過酷な環境の中で,砂漠ならではの現象がいくつかあった。
 
 
 【水道の逆転現象】 〜 カタールの家屋には2t程入る水用タンクが屋外に設置されている。真夏にはタンク自体が60度ほどに熱せられるため,中に入っている水も高温になる。したがって,水道の蛇口をひねると,熱くて触れることのできない水が出てくるのである。そこで,お湯を沸かすためのボイラーをオフにし,室内に設置されたボイラー用のタンク自体をエアコンの冷気で20度程までに下げ,お湯の蛇口から20度ほどの水を出すのである。つまり,水の蛇口からお湯,お湯の蛇口から水が出るのである。真夏の前後は,シャワーにも適温のお湯が,水の蛇口から出てくるのである。
 
 【結露の逆転現象】 〜 北海道の冬季,窓の内側に結露が発生するが,砂漠の夏はその反対の現象が起こる。カタールは3方を海に囲まれているため,夏の夜は湿度が上昇し,湿度100%に近い状態にまでなる。真夏は真夜中でも35度を超えるような日が続くため,エアコンは24時間稼働である。外気に含まれた水分は,室内の冷たい空気に窓を通して触れると,結露となって現われるのである。北海道では窓の内側に,カタールでは窓の外側に結露が生じるのである。めがねの曇り方も逆である。一歩外へ踏み出すと,一瞬でめがねが曇るのである。
 
 【プールでのアルコール消毒状態】 〜 4月から12月まで行なわれたプール学習での体験である。気温47〜8度,水温40度というプールである。お風呂で泳いでいるような感覚である。ところが,水から身体を出すと非常に寒いのである。気化熱のためである。
 気温・水温が高温である上,強い太陽熱により,あっと言う間に体表面に付着した水分が蒸発するためだったのである。まるで全身をアルコール消毒したかのように。
 
 日中は,屋外にいること自体危険であった。長時間に及ぶ屋外での活動は生命にも危険が及ぶのである。したがって,学校生活でも家庭でも,子どもたちの遊びや運動は,著しく制限されたものであった。屋外遊びのほとんどは,水泳にならざるを得ず,様々な運動経験を積ませることがきわめて困難であった。
 また,カタールの労働者は,水分のみならず,汗とともに失われるナトリウムやカリウムなどの必須元素をタブレット状にしたものを摂取しながら働いているのである。それでも,死者が出ることがあった。まさに酷暑の砂漠地帯であった。
 私自身,1週間ほど経ったある日,暑いところに出ると寒気がしたり,発熱もした。まだ氷点下の北海道を離れたばかりで,いきなり40度以上の気温にさらされたため,体温調節が追いつかない状態であった。慣れるのに半年以上要した。しかし,人間の適応能力には素晴らしいものがあり,1年後の春,赴任当初感じた40度の感じ方が全く異なるもであったことに驚きを隠せなかった。
 
 
3.カタール 国と人々
 
 【人】 〜 カタールの人口は約60万人である。80%は外国人労働者である。世界中からオイル・天然ガスマネーを求めて労働者が集まってきている。
 カタール人のほとんどが国の要職に就いており,オイルや天然ガスで得た利益で潤った生活をしている。「アラブの大富豪」は実在した。
 特に驚いたのは,王族関係の子弟には,生まれたその月から男子で20,000QR(1カタール・リアル=約35円,約70万円),女子でその半分が毎月支給されるということである。一夫多妻制(最高4人まで)が許されており,子どもの数も多いことから,この支給金だ けでも相当の額にのぼると思われる。一般的なカタール人の家庭で,ドイツの高級車2〜3台,更に砂漠用にTOYOTAのランドクルーザーを所有しているのが一般的であった。使用人も,コック,メイド,ドライバー,ガーデナー,など4〜5名というところもあった。まさに,アラブの大富豪という生活の仕方であった。
 
 【カタール政府】 〜 カタールは1971年,イギリスのスエズ以東からの撤退により,独立を果たした。その後旧態然としたイスラム国家としての歩みを保っていたところ,UAEに近代化や民主化の上で水を開けられる形になった。そもそも,’71年の独立建国の際,カタールも首長国の1つとして,UAE(United Arab Emirates = アラブ首長国連邦)への加入を勧められたのである。しかし,それを断り,隣国バハレーンとともに,独自の国造りを目指すことになったのである。
 1997年,民主化と近代化の必要性を感じていた首長の息子が,父(国王)が外遊中に無血クーデターによって政権を手中に収めた。それ以来,一気に近代化と民主化の道を歩み始めたのである。
 インフラの整備はもちろん,女性への参政権を解禁した。更に,’00年には,世界イスラム会議の議長国を務め,’01年にはWTOの開催国も務めた。(9.11WTC爆破テロで開催が危ぶまれたが11月無事に開かれた。’99年シアトル,今年’03年メキシコ・カンクンでのWTOでは,ともに暴動が起きたが,カタールでは一切起こらなかったため,国際的な評価を得た。)
 地理的な要因もあるが,治安は世界最高水準にあり,安心して暮らせる豊かな国であった。
 ’06年には,アジア大会を控え,更なるインフラの整備や施設の建設が急ピッチで行なわれており,ここ数年で街の景観は激変した。遊園地やスケートリンク,プール,ボーリング場などが付帯した,テナント数400を超える巨大なショッピングモールも完成し,暑い夏場でも1日を過ごすことができる空間が誕生した。
 
 
4,イスラム教
 
 【カタールのムスリム】
 
  イスラム教の教義に基づいて人々は平和で豊かな暮らしをしている。一方で,人口の8割を占める,近隣諸国からの出稼ぎ労働者の中には,過酷な労働条件の中で働き続けている人々も多く,富める者との歴然とした差は埋めようもないほど大きなものであった。
  しかし,イスラムの教えでは,「神の下に人々は平等」であり,ゆえに,男女共富める者も,貧しき者も同じ衣装をまとうことを説いているのである。
 
  どちらかというと,敬虔なムスリムは労働者に多く見られた。どうしてもお金を持ちすぎた人々の視線は高くなっていた。また,労働者階級の人々や人種によって軽重をつけて扱うような傾向があった。私たち日本人も,一アジア人として鼻であしらわれるようなことがあったが,「日本人」だと分かると,態度がころっと変わることがあった。SONY,TOYOTAなどのブランド名がアラビア人の口から飛び出し,それらの製品を作った日本人はすごいと褒めだすのである。
 
 【イスラム教】 
  7世紀の半ばに,ムハンマッド(モハメッド)がアッラーの啓示を受け,イスラム教を興した。イスラム教の神も,キリスト教の神も,そしてユダヤ教の神も実は同じ神を指している。したがって,聖地も重複する。これが今日の中東問題の一端となっている。
 
  イスラム教は人間生弱的な教えを説いている。
  「人間は弱いもの。酒を飲むと我を失い過ちを犯す。だから酒は飲むな。」
  「人間は弱いもの。女性の髪や肌を見れば,男性は我を失い犯罪を犯す。だから女性は肌や髪を覆いなさい。」というような考えである。
  したがって,犯罪の芽をつみ取る国造りができるのである。
  また,犯罪に対しては厳しい制裁が科せられる。「目には目を,歯には歯を」という考え方である。
 
   イスラム教の信者には5行が科せられる。
   ・1日5回の祈り
   ・貧しい者などへの喜捨
   ・カーバ神殿(メッカ)への巡礼(一生に一度)
   ・断食(ラマダン)
   ・信仰告白
    
   1日5回のお祈りは,それぞれ日の出,昼頃,3時頃,日没,8時頃におこなわれ,毎日その日の太陽と月の関係から,ふんたいで時刻が変わるのである。祈りの時間になると,ドーハ市内にある400以上ものモスクから,一斉にアザーンと呼ばれる哀愁を帯びた,祈りの時間を告げる歌が流れてくるのである。
  
   ラマダンは,1ヶ月の断食をする。と言っても,日の出から日没までの飲食を絶つだけ で,全く食事を取らないわけではない。むしろ,日没後は夜中まで連日パーティーを繰り広げるため,痩せるどころか太ると聞いた。
  元々ベドウィンと呼ばれる遊牧民であった人々にとって,太ることは富の象徴であり,特に結婚後は,夫は妻をいかに太らせるかが命題となっていた。相撲とりのように太った男女が大半を占め,平均寿命も50歳というから驚きである。しかし,最近では,ウォーキングをするなど,ダイエットに励む女性が増えるなど,健康重視のライフスタイルを追求するようになってきている。
  ラマダン中は,外国人と言えども,露骨に外食などはできない。また,豚肉はいつでも御法度である。豚肉中心の生活を送ってきた日本人にとって,非常に酷であった。
 
 【イスラムの人々の気質】
   全ての人ではないが,いい加減なところがあった。インシャーラーという言葉がある。
  「神の思し召すままに」という意味である。さようならの代わりにも使われる言葉である。   約束をしても,守られないことがよくあった。約束なども,「神の思し召しがあれば,実行されるでしょうよ。」と言う具合である。また,よくたらい回しにされた。面倒なことは人に任せるのである。健康診断に行った際,8カ所もたらい回しにされ,8カ所目に行き着いたところは最初の窓口であった。
 
 
5.中東問題〜アメリカとの関わり
    
 【イラク戦争】
   ’03年3月20日,アメリカ・イギリスを中心とする勢力がイラクを攻めた。私が赴任した’00年には,既に砂漠の真ん中にアメリカ軍の基地ができていた。
   前述のイスラム会議では,フセインイラク大統領は国賓として招かれており,その待遇は,世界56カ国あるイスラム国の国家元首らと何も変わりはなかった。
   カタールは,無血クーデター以降,近代化と民主化を図るとともに,積極的な西側外交を展開しており,時折,サウジアラビアやUAEなどから批判を受けることもあった。例えば,パレスチナ問題では,サウジやUAEがパレスチナ(アラブ民族)を支持する言動をしていても,カタールはパレスチナに対しても,アメリカが支援するイスラエルに対してもどちらにも平等な立場で外交や支援をしてきたのである。
 
   今回の戦争で,アメリカ大使館の前で1人が銃を発砲した事件を除いて,カタールは平穏そのものであった。アメリカ軍の基地があり,そこから戦闘機が毎日のように離発着していたのにも関わらずである。カタールの地理的な条件や小国であるが故にセキュリティーや治安は保ちやすいのである。今後もアメリカを中心とした外交を展開するものと思われるが,ガリガリのイスラム国との協調をどのように行っていくかが課題となっている。
 
 
6.日本との関わり
 
  【天然ガス】
   カタール沖には世界有数のガス田があり,向こう200年は採掘可能と言われている。カタールで生産される天然ガスの大半が日本へ送られている。
   天然ガスは,LNG( Liquid Natural Gas)に液化され,LNG船に積み込まれる。LNG船は,カタールと日本の間を2週間で結んでいる。LNGは,主に中部電力に売却されている。日本全体のガス輸入量に占める割合は5分の1で,年間600万トンにも及ぶ。
 
   かつて,真珠で細々と生計を立てていたカタールは,日本の養殖真珠の打撃を受け,危機的な状況に陥った過去がある。そんな矢先,石油が見つかり,今のカタールの繁栄がある。その後ガス田が発見され,ガス精製プラント建設に日本企業が関わるなど,日本がカタールの産業を支える国の1つになっており,クリーンなエネルギーとして天然ガス需要の高まる昨今において,日本とカタールのパイプラインは,今後ますます太くなるものと思われる。
 
 
7.ドーハ日本人学校の教育
 
  赴任当初,全校生徒わずか14名,その後転出が相次ぎ,翌年度スタート時点で6名,内2名は派遣教員の子弟,残り4人も夏休み前には帰国の予定であった。その結果,1学期の終業式をもって,休校となった。
 
【カリキュラム】
  カリキュラムは日本とほぼ同じであったが,派遣教員の専門性を生かすため,中学校,小学校の区別なく,一部の教科を教科担任制で行っていた。また,体育は人数不足を補うためなどの目的から学校長以下,全員で指導にあたった。
  学校に体育館がなく40℃〜50℃の気温が4月から10月まで続くため,体育のほとんどは水泳であった。(4月から12月上旬まで。)
  水泳以外には,体育館を借りてマット運動や球技を行ったが,予算の関係上毎回使用料を払うこともできなかったため,水泳は苦渋の選択であった。しかし,おかげで子どもたちの泳力は非常に伸びた。
 
【現地理解教育・国際理解教育】
  現地理解並びに国際教育の観点から,イギリス人講師による英会話の授業を週3時間,シリア人講師によるアラビア語の授業を1時間行っていた。小学1年生でも週3時間の英語のみによる授業を行っていたため,子どもたちの英語能力は高いものがあった。
  現地の学校との交流については,イスラム国であるが故,小学校から男女別の教育が行われており,また,宗教的な相違も大きく,交流できなかった。その代わり,英会話を生かしてノルウェー人学校との交流を定期的に行っていた。
 
【北海道文化としてのヨサイコイソーラン】
  日本人会水泳大会・日本人会合同運動会・夏休み研究発表会(学習発表会)・国際ダンス交流会・日本人学校閉校式典・ノルウェー人学校交流会・保護者会など,多くの機会で披露するに至った。
  特に,国際ダンス交流会では,ノルウェー,フィリピン,インド,パキスタン人学校とともに,日本(北海道)の文化としてアピールできた。カタール人に対して,太鼓と鳴子を使って激しく踊るヨサコイは,強烈な印象を与えるものとなった。
 
 
8.カタールでの3年間
 
 不安と期待(99対1の割合)を抱えてドーハ空港のタラップを降り立ち,バスに乗り込んだとき,周りを体格のいい真っ黒と真っ白の人々に囲まれた。強烈なカルチャーショックであった。しかし,出迎えてくれた仲間の姿を見て,開き直ったのを思い出す。
 住めば都というが,酷暑,イスラム,テロ,・・・最悪のイメージしかなかったカタールが,今では記憶の中で,オズの国のように砂漠色(エメラルド色)に輝きを放っているのである。イスラムの人々は,平和を愛し,神の下ではみな平等という教えを尊び,祈りも欠かすことなく平和に暮らしていた。井の中の蛙大海を知らず。ということを痛感した。
 
9.中華人民共和国 上海日本人学校への赴任
 
 ドーハ日本人学校が休校になり,もはや帰国・待機・再派遣かと思われた頃,上海日本人学校への赴任を命じられた。赴任までちょうど1ヶ月ほどしか残されていなかった。
 慌ただしく,身辺整理と学校の整理をし,赴任の日となった。上海への思いよりも,ドーハに後ろ髪を引かれる思いで上海入りした。
 「帰ってきた。」「ドーハと変わらない暑さじゃないか。」これが第一印象であった。
 
 ドーハで目に入ってくるものは,アラビア語,民族衣装,砂漠,モスク。上海でのそれは,漢字,日本人と同じ顔,ビルまたビル。
 「帰ってきた」と思ったのは当然であった。
 帰国するまで,その思いは変わらなかったが,中国と日本,中国人そのものに対する自分の 考えがどんどん変わっていった。近くて遠い国であった中国が,近くて近い国になった1年半であった。
 
 
10.現在・過去・未来が混沌とした上海
 
 人口1600万以上。人口密度はどこの都市へ行っても非常に高い中国であるが,上海も例に漏れず,いついかなる小路でさえ,縁日のような賑わいである。
 上海には,アヘン戦争以来できた治外法権区「租界」時代の建造物がいまだに多く残っている。外灘などはイギリス建築の展覧会といった様相であり,そこにいると,とても中国とは思えない景観である。また,昔ながらの家屋やライフスタイルがいまだに残っている地区が市内に点在しており,高層ビルとそうした建物などが描くコントラストは,趣がある。世界でも類をみないほど高層ビルが林立しているのも上海である。日本全国にある高層ビルが約1500,上海だけで2000以上と言われている。今なお,古い建物を爆破,解体し,新しい高層ビルがどんどん建てられている。上海のもっとも未来的な地区は,浦東開発区である。既に近未来の象徴的交通手段であるリニアモーターカーが浦東空港と同地区30qをわずか7分で結んでいる。まだ実験段階であるが,我々一般人も乗車可能である。(一般人を乗せて実験をくり返すあたり,中国的な発想で,日本では考えられない。)
 上海には,現在,過去,未来が混沌としており,非常に魅力のある街である。
 
 
11.社会主義? 資本主義?
 
 上海に住んでいると,日本が社会主義に思えてくる。(日本は世界で唯一成功した社会主義と言う人もいるくらいではあるが。)経済特区である上海は,アメリカンドリームの上海版が存在する。上海バブルといわれる不動産投資に象徴されるように,株も右肩上がりである。
 人々の生活や仕事は,自由な空気にあふれている。一方で貧富の差は拡大し続けており,社会問題となっている。
 「社会主義」を感じた事象は,新しい道路や建物の建造の際,強制的に住民を立ち退かせることぐらいであった。土地は全て国のものであるため,人々は50年,100年単位で土地の貸借権を買うのである。それと手,新道路建設などに引っかかると,国が用意した住居に移るか,一定のお金をもらって自分で住宅を探さなければならない。
 新しい街作りは急ピッチで行われており,古いものがどんどん壊され,ビルや公園に生まれ変わっている。発破による解体も希ではない。
 何をもって社会主義かというと,今や共産党による一党独裁政治。それのみであり,経済に関しては,資本主義にいかにスムーズに移行するかという段階である。
 
 
12.世界の工場 〜 安い労働賃金  
 
 世界の工場と言われる所以は,安い労働力にある。一般的な工場就業者の賃金は,1日30元である。1元=約15円と考えると,わずか450円である。日本の最低時給にも満たない金額である。ゴルフ場のキャディーも20元だった賃金をストライキによって30元に引き上げさせたと,ニュースになったほどである。  
 
 安価な労働力を求め,不況で苦しむ日本の企業,商社や個人がものすごい勢いで中国に進出している。それを象徴するのが上海日本人学校の生徒数の激増である。
 2001年7月,上海日本人学校に赴任した際の生徒数は670人であった。それがわずか1年半余り経った2003年4月には,1280人にまで増えた。ほぼ倍増である。’03年3月末の「SARS騒動」で,入学辞退者や帰国者が大量に出た。「SARS騒動」がなければ,
1400人でのスタート予定だったのである。校舎を2年の間に3度も増築,現在は5階建て40教室を増築中である。新しい学期のたびに150人前後の転入生があった。そして今年4月には一気に400人増でスタートする予定だったのである。
 日本から上海(中国)へという流れは,ここしばらく続きそうである。上海日本人学校が世界1のマンモス日本人学校になる日はそう遠くない。
 
 
13.戦争の後遺症
 
 ’02年2月,南京を訪れた際,日軍南京大屠殺記念館に行った。非常に重苦しい気分で見学していた。悪い予感が的中した。同行した同僚の子どもを連れた中国人ガイドに,韓国人が何か叫びながら,殴りかかってきたのである。
 たぶん,「おまえら,日本人のくせに,こんな所にのこのこ来やがって!」というようなことを叫んでいたのだと思う。すぐにガードマンが来て騒ぎは収まったが,非常に重苦しい,後味の悪い見学となった。
 記念館には,今にも日本兵が日本刀で中国人捕虜の首をはね落そうとしている写真や,ずらりと並んだ生首の写真など凄惨なものばかりであった。また,発掘されたそのままの状態の骸骨が200体ほど,ガラスに覆われた展示室に悲しげな姿をさらしていた。
 中国に入る前,このようなことが日常的に起こるのではないかと心配していた。しかし,実際は一度もそのようなことがなかった。この記念館での事件を除いては。
 南京のみならず,中国の至る所に日本軍による戦争被害を訴える記念館がある。かなり誇張された数字やねつ造と思われる写真なども含めて展示されている。しかし,数字の大小に関わらず,日本軍の残した戦争の爪痕が,至る所に残っているのは事実である。
 
 
14.上海日本人学校の教育
 
 世界屈指のマンモス日本人学校となり,学習環境を筆頭に問題は山積みであった。しかし,熱意あふれるスタッフの時間を惜しまない仕事によって,日本以上に高い質の教育が行われていた。
 子どもたちの4分の1は,両親のどちらか,又は両方が中国人であった。放課後は中国語で話し,放課後は日本語を巧みに使い分ける子どももいれば,両親ともに中国人でありながら,日本語しか話さない子どもなど,様々であった。
 学校ではあくまでも日本の教育課程に基づいて行われており,それに週1時間の英会話と中国語を上乗せして行っていた。登下校のバスの関係上,小学1・2年生は早帰りが難しく,かなりの時数を上乗せで行わざる得ない状況であった。
 
 子どもたちは,商社や企業の子弟が多く優秀,有能な子どもが多かったが,近年激増した子どもたちの中には,障害を持つ子供も含めて多様な子どもたちが入学するようになり,問題も生じるようになってきている。
 
 日本とは異なり,社会主義というお国柄も手伝って,校外学習一つをとっても渉外やガイド,通訳の手配などハードルがいくつもあるのである。さらに,中国の経済発展と日本の不況のあおりをまともに受け,校舎の問題をはじめ,多様な生徒・保護者を抱え,多種多様な問題に対処しながら,質の高い教育をしていかなければならない状況にあった。
 
 
15.おわりに
 
 幸か不幸か,2つの国の日本人学校に赴任することになった。幸の部分で言えば,一度の派遣で2つの国の文化や言語,人々と触れ合うことができたこと。不幸の部分では,2年目(異動のあった年)は,前半はドーハ日本人学校の後始末,後半は,2度の臨時代替担任や専科など腰を落ち着けているひまが,公私共になかった。
 ともあれ,2度の派遣で2つの国の文化のみならず,多くの国や地域と人々の暮らしを垣間見て,これまでの価値観も大きく変わった。
 とりわけ,地元北海道十勝の自然,空気は,世界でも希に見るほど美しいものであったことに気づいたことは,最も大きな発見の1つである。
 
 2つの国で学んだことを糧に,今後も研鑽を積むとともに,地域の人々に少しでも還元できることをしていきたいと考えている。