一斉指導が原則の体育祭練習 

 

 「軍隊のような,学校なんか行かないよ」    

 

 K中学校では,九月になると海外から帰国子女が急激に編入学してくる。このK中学校では,毎年九月の第二週日曜日に「体育祭」を実施する。帰国子女は,そんなことは知らずに,帰国子女受入態勢が整っているK中学校に向かって帰国してくる。海外から日本に来る「帰国子女」「外国人子女」は,日本的体育授業の経験がないことが多いことから,多くの戸惑いがある。そんな中に,君雄はニューヨークから帰国してきた。君雄は日本人の父母のもとに育ってきたが,家庭内でも日本語を使用することなく生活していたために,日本語が使用できないできた。そのために,日本人生徒とのコミュニケーションができずにいた。君雄は,9月1日に来校し,そのまま学校に通学を開始した。普通のときならば,帰国子女教育担当のA教諭先生が対応し,教育相談を実施してから学級を決めたりするが,この時は,A教諭が出張で学校に不在であった。そのために,本人の日本語力や,様々な情報を得ることなく学級を決め「体育祭」の練習に参加させてしまった。また,悪いときには悪いことが付いて回るのか,「体育科」の教師も手が一杯で,この君雄に対応することができず,担任教師が体育祭の練習に掛け声を掛けて活動していた。したがって,技術的な指導や,技のコツを指導することはできず,ただ,「頑張ってやれよ!」との掛け声しか掛けられないでいた。日本語の理解できない君雄は,周りの生徒の動きに合わせて行動をしようとしていたが,自分にとっては初めてのことでどうにも,行動することができないでいた。そこに,教師側から「なにをもたもたしているのか」と一喝されてしまった。日本語は理解できないが,声の音量と雰囲気を感じとった君雄は,自分が叱られているが分かった。

「僕は,日本に初めてきて何も知らないんだ。怒鳴らないで教えてくれ」

と胸の中で声を発していた。英語で発しても誰も理解できないと思い込み,声を出して訴えることはしなかった。自分の嫌いな,軍隊のような行進練習をさせられ,その際に掛け声を出させられたことが心底参った。しかし,こんな練習を二日間我慢したが,「誰も自分には声を掛けてくれない」いつかは,帰国子女教育担当の先生が声を掛けてくれるだろうと期待していたが何もなった。

「こんな学校には,二度と来ないぞ」と自分に言い聞かせながら,二日には帰宅していった。

そんなこととは露知らず。三日目の朝に帰国子女教育担当のA教諭は自宅のほうに電話を入れた。そうしたところ,母親は,帰国子女教育担当のA教諭が事情を知って電話をしてきたのかと思い,

「先生,家の子は学校へは二度と行かないと言っているんですよ」

「えー,今日は学校にきていないんですか」

「そうなんですよ,どうしたらいいでしょうか」

「本校に入ったことを知ったもんですから,様子を伺おうと,電話したんですよ。入った日は,出張でいなかったもんですから」

「そうですか,もう困っているんですよ。父親とも電話で話したんですが,学校には行かせないと言うんですが,どうにもならなくて」

「そうですか,じゃ,すぐに家のほうに行きますよ,ちょっと待っててください」

「でも,来ていただいても,変わらないと思いますが」

「いいんです。顔つなぎだけでもいいですから,一寸うかがいますよ」

と,電話を切り,早速「体育祭」の練習を中断し,君雄の自宅まで駆け付けてみた。案の定,顔さえ出さず,奥の部屋に閉じこもって動こうともしない。母親が,学校の先生が来たことを伝えても,

「あんな,軍隊のような学校になんか絶対に行かない」

「僕は,なんにも知らないのに,ただやれといったってできないのに,怒鳴るんだよ。アメリカの学校では先生はもっと優しかったよ」

「僕はアメリカに帰るんだ」

「それが駄目なら,アメリカンスクールに行かせてよ」

「それは,アメリカにいるお父さんも駄目だと言ったでしょ」

君雄は,たった二日しか経験していないのに不平不満が口を吐いてきた。

「笛一つで,右を向いたり,左を向いたり,本当に軍隊なんだよ」

「僕より大きい子が,僕の肩に乗るんだよ,肩が痛くてしょうがないよ」

「僕の知らない体操をいくつもやらせ,知らないのに何にも教えないんだよ」「なんで,日本語なんか習わなくちゃいけないの。僕は日本は嫌いなんだから,早く,アメリカに戻りたいよ」

と,てんで手が付けられない状態であった。しばらく,母親に色々と話を伺って,状態が好転する気配がしないため,一旦,学校に引上げ,また,夜伺うようにし,自宅を後にした。辺りも太陽の光が萎えた頃を見計らって,また君雄の自宅へ足を運んだ。昼間の状態と同じであったが,暫くして大学生の兄が帰宅してきた。兄は,今日学校に行かなかったことを初めて知って,君雄のいる部屋にいき,話を始めた。

「先生が,この夜にわざわざ訪ねてくれ,お前のことを本当に心配しているんだぞ。こんな時間になってもお前と話をしようとして,お前が出てくるのを待っているんだぞ。そういうことも分かって出てきて話をしよう。先生は決して,君雄の敵ではないぞ,味方だぞ。いいか」

「うん」そんな話しが聞こえてきた。それからしばらくして,兄が君雄を伴って部屋から出てきた。兄が「今,色々話してきたんですが。体育祭については抵抗が大きいんでちょっと参加のほうは許してもらいたいんですが。それから,先生,学校へは体育祭が終わるまで行かないで,終わってから学校に登校するところまで弟が譲歩してきたんですが,どうですか」「それはかまいません。でも,それまで家にいるだけでは退屈でしょう。体育祭の練習はやらなくてもいいから,学校に来て体育祭の練習を見ていたらどうかね」「先生がこう言ってくれているんだから,学校に行って見ていたらどうだ」「A教諭先生がそういっても,外の先生が絶対やれって言うよ」「そんなことはないよ,先生が皆の先生方に言っておくから大丈夫だよ」「先生が約束してくれているんだから,行って見ていたら」体育祭の練習を見に来る約束まではできなかった。しかし兄の助言のもとに,学校には,登校してくることを約束できた。この二週間の間に,学級の子供達の中でリーダー的な子に,登校してきたら面倒を見てもらうようにお願いする形をとった。約束通り二週間後に登校してきた。先ずは,日本語の学習に専念するために,「日本語教室」での指導を始めた。この間も,学級のリーダーの生徒を中心に多くの生徒が,休み時間には「日本語教室」に押し掛けるようにして来室し,日本語が分からない君雄に対して接触を持ってきた。この最中にも,リーダーの生徒は,自分のお古のスポーツウエアを家から持ってきてやったりした。このことから,君雄も心を割って接触を図るようになり,言葉は理解できなくても,一緒に遊びようになった。これ以後の日本語は,仲間と意思の疎通ができるくらいの日本語の力がつくと,その後は日本語の学習に対して意欲がなくなり,遊びのほうに時間を費やして,放課後の日本語指導時間は確保できなくなった。

 背景には 

 

 一般的には 

 一律指導を毛嫌いする生徒は,一般社会におけるマスによる捕えかたではなく,個人としての捕え方が主体になっている一般社会の影響をまともに受けている。日本では個人より,集団の方が優先されている。したがって,日本の学校教育は集団がどのように行動するかで個人の行動が制限される。そこにいくと,帰国子女や外国人子女は,特別の児童生徒を除いて,集団主体の体育的教育の指導を受けている者は,皆無にちかい。さらに,一般生活行動における集団行動指導としての一斉指導は行なわれていない。諸外国においては,個人行動が主体であり,集団を主眼にしていない。したがって,授業態勢も個人を尊重した形態をとっており,能力差を無視したような一律指導を実施することはありえない。その形態は,日本の教育でいうと,複式学級方式の指導態勢が主流であり,個人個人の能力に合った課題を与え,個別指導を主体に指導している。学級の中でも同じ教材で同じ内容の学習をしていることは殆どなく,一人一人に学習課題が与えられ,その課題に添って個人が学習を行なっている。この課題の与え方も,個人の能力を考えた上で与えられているために,適切なものになっている。そこにいくと日本では御覧の通り,集団を指導しながら,個人を見る方式になっている。これも個人を完全に見ることができるわけではなく,数多くの学習不理解者を作ってきてしまっている。個人の理解度を無視したような進度で学習が勧められ,学習不理解者は自分で理解しようにも進度が早く,自分から学習意外のものに興味を示し,学校教育の場からドロップアウトしてしまっている。日本にだけ暮らしているこどもでも,この日本の早いスピードの学習といい,多彩な内容の学習には適応できないでいる子が出ているのである。ましてや,諸外国で手厚く学習指導されてきた帰国子女・外国人子女の子供達は,余りの学習の進度の速さにびっくりしている。また,一クラスの子どもの数にも圧倒されている様子がある。

 

 解決をめざして 

 教師としては,子どもの口にしていた指導方法については,一方的に非を認め,改めることを口にするしかなかった。日本では当たり前の集団行動での行進練習でも,一度も経験のしていない子どもにとっては何も分からないのは当然のことである。その際に,教え導くことをやらなかったのは指導教師の側に一方的非があった。行進の際の第一歩は左足からということも知らず,また,全員の子供達の足並みを合わせなければならないということすら知らなかったのである。この子どもはただ単に前進すればいいものと思って歩いていたものが,突然「こらあ,馬鹿やろう,ちゃんとあわせろ」と言われても,言葉は理解できない。しかし,大声で叱られていること感覚として分かったようである。これが最初の授業で叱られたことで,引き続き組体操でも自分の全く知らないことなので戸惑っていると,また罵声を教師から浴びせかけられたのであった。今迄の学習の中で経験したことのない組体操では自分がどう行動していいのか,全然分からなかったようである。顔形は,日本人と同じであっても,日本語が全然理解できないとは教師の誰もが分からなかった。そのために,日本国内の転校生くらいにしか認識がなかったのが実情である。帰国子女教育担当教師が留守にしていたとはいっても,留守にしていたのならそれに変わるべき人が対応をしていかなければならないのに,そうできなかったことは態勢的に考え直さざるをえなかった。登校し始めてから三日目に,登校することを嫌がってしまったことについて学校側の責任は否めない。また逆に三日目につかめたことも長引かせなくて良かったという面もある。この生徒にとっては自分のことを誰も分かってくれなかったことが悔しかったようで,このことは,帰国子女教育担当者が足繁く通ったことで意思の疎通でき解消していった。人間として心の交流が一番大事であるが,実際の場面になってからは,その意思の交流をどのように勧めていったら良いのか戸惑ってしまっている教師が多い。しかし,この子どもに対しては一つ一つ相手を思いやる心で接していったのが幸いした。また,学校に通わせることだけを目的にしたのではなく,物心ついてから初めて日本に来た子どもに,良き聞き役として接していったのが子どもの心を開く切っ掛けになったようである。これはカウンセリングの初歩の心構えと同じである。ただ単に登校だけを考えて話しを勧め,同級生の接し方まで気を遣っていなければ,登校してきても数日で嫌になってしまう。しかし,登校してから,教師が依頼しておいた通りに同級生が暖かく迎え入れ,自分の体操着やタオル等不足しているであろうと気を遣って,この日本に始めてきた子どもにプレゼントしたことも,子どもの心を和ませ,登校してくる元気を取り戻し,繋がりを深めていく要因になった。また,登校し始めてからも軍隊的な体育として毛嫌いしていた,体育の授業にも,教師や同級生が細かく教えてくれることから,嫌がらずに参加していけるようになった。

 

 これからの対処は ???

 今後,このような個人指導優先の教育を受けた子供達は確実に増えてくることが予想される。したがって,最初の編入学時期に子どもの学習経験や生活経験を的確に把握しておく必要がある。

同じ国々から日本に来た子どもでも,それぞれ違った教育を受けてきていることや,米国,英国等では,同じ国なのにどうして違うのかということではなく,州が一つの国なのだという認識をしっかり頭に植え付けて子どもに対処して行かなければならない。また,教科書に対しての考えも日本的なものではなく,検定教科書などはなく,学校内でも教師によって違った教科書を使用しているなど,制度的なものもしっかりと的確に把握する必要がある。これ等のことを,全部知るには大変な努力が必要であり,不可能なことでもある。それではどうするのかというと,帰国子女の保護者に面談した際に,しっかりと把握しておくことが重要になってくる。その為にも,これから学習指導していく上でどのような項目が,必要になるのか,気が付いたときに,書き留めておくことも大事になってくる。また,日本のカリキュラムとは相当に違うので,未学習教科・未学習分野の把握を的確にできるようなリストを作成し(色々な言語の対訳付きの),時間を掛けてチェックできるようにしたい。それによって,柔軟に学習内容を基礎的なものから,応用まで学習できるようにしていきたい。日本人の教師が,集団を一つのものと見る考えではなく,個人一人ひとりを引き伸ばす教育を施し,授業中の勧め方も,個人に的を絞った授業展開を推し進めていかなければならない。日本には平均点で一集団を見る見方があるが,この平均点の取り扱い方も,個人に的を絞って,一人の個人を引き揚げたり,教師自身の指導方法の研究に費やしていく資料として行くことも必要になってくる。個人が大事であるとは言っていても,それでは,A君は今どのくらいのことをマスターしているから,次はどの位までの知識をマスターさせるのか,という具体的な目標を持って授業に望んでかなければならない。今,現実にこのような目標を持って授業に望んでいる教師は少ないのではないか。しかし,このような具体的目標を念頭においてやる授業と,念頭にも置いていない授業では格段の差が付いてしまう。これは,理屈では当たり前のことであるが,実際の場面ではお座なりになっている面もある。したがって,教師の資質の幅を広げることを始めていかなければならない。