二言語使用

     国立国語研究所長     野 元 菊 雄

17号巻頭言(1984年1月30日発行)

二言語使用者が今後の日本ではますます必要になってくることでしょう。必要だから養成するなどと言いますと,反発を感じる向きもありましょう.しかし,こういう人が世に珍重されることは間違いのないところです.

 それでも,二言語使用者なら何でもいいということにはならないでしょう。このような人の中にはともすると,単なる英語使いでしかないのに,いわゆるイカれた態度をとり,同朋を見下すような人がいなかったとはいえません.

 これからの日本にとって大切な二言語使用者は,いつも日本の心で考えることができる人でなければなりますまい.

 ことばと心とは密接な関係があり,普通の二言語使用者は,日本語を話すときは日本語の心で,外国語で話すときは外国語の心で考えることになります。これについては,いろいろの実験で確かめられています。ということになると,例えば英語を話しているときは英語で考えている,ということでしょうか。

 英語を習うときは,英語で考えることを理想としていました。単純に,英語に上達しようというときはそれでいいでしょうが,そこで満足していてはいけないと思います。

 英語を話すときに英語で考えられるようになるとそれで得意になってしまう人が多いようです。けれども,そうすると例えば,通訳で,日本人の言った日本語を,英語に訳して話すとき英語の心で話すことになります。これでは正しく日本人の心を伝えたことにはなりません。すなわち,不完全で悪い通訳です.

 ですから望ましい通訳は,もし両方への通訳であれば,日本語をしゃべっているときは英語の心で,英語をしゃべっているときは日本語の心で,ということになります。これは実は大変むずかしいことで,したがって,英語を話すとき英語の心となる,といった低次の力であってはならないことになります。

 これからの求められる二言語使用者はこの右に述べた高次のものでなければならないでしょう。ところがそうでなかったから,とかく日本の政治家はアメリカ人との会談で食言する,などと言われたのではないでしょうか。これと同時に,通訳を介して理解する人は,また,自分の論理だけで,物を考えない,ということが必要でしょう。

このためには,いかに文化の違いで考え方が違うかということが,心と体とでわかっていなければなりません。

 今の大人たちにはこれはむずかしいでしょうが,小さいときから二つの文化,すなわち考え方の間に身を置いて,両方に同情,理解できる力を持つと,この両方だけでなく,世界中の考え方について少なくとも寛容の精神を持つことになるのではないかと思います。

 以上のような意味で,在外の日本の子どもたちに期待するところが大きいのです。ただ外国にいるだけではダメで,外国にいるメリットを十分に生かすようにしなければなりません.

 もっとも,理想としてはこうしようと思っても,現実の問題として,帰国してからの入学試験が気になったのではいけません。そうならないように,われわれは,安心してー流大学に受け人れる道を作っておいてやるべきです。

 それはしかし,日本語も話せないような子どもに対しての甘やかしであってはいけません。日本語も十分年齢相当にできる場合に限るべきです。

 人間の頭悩は二か国語ぐらい十分に入る余地はあります。外国語がうまくなれば日本語がダメになるとか,逆に,日本語の学習をつづけていると外国語がなかなかうまくならない,といった類いの説は子どもの能力を信ぜず,子どもの能力を冒涜するものと言うべきです。

 以上のように考えるならば,海外にいる日本人の親たちの責任は大変重いとせざるを得ません。

 少し海外の日本人学校とは離れた論になったと思います。日本人学校にいてしかも現地語なり国際語なりとの二言語使用者となることは実のところかなりむずかしいようです。しかし,それにもかかわらず,そのような人間を教育することをこれからの在外日本人学校は考えるべきだと信じています.

 そして,補習学校の場合は,これは二言語使用者を育てるための尖兵ともなるべきところかと思います。補習学校の日本語教育は,第一言語としての日本語の維持に努めるべきですし,第一言語としての力を維持するためには,外国に住み始めたら一日たりとも日本語の習得,学習を怠るべきではありません。

 海外子女の将来はだんだん明るいものになりますが,これを真に明るいものにするための努力もまた大変なものです。