国際人育成シンポジウム

 (財)海外子女教育振興財団常務理事 水 野 富 士 夫

30号巻頭言(1988年7月1日発行)

「教育の毎日」の総力を結集し,新しい国際文化交流の殿堂ともいうべき日墨学院において,海外子女教育シンポジウムを聞き,世界の最前線から,国際教育,海外子女教育の実態をリポートし,国際文化交流のあるべき姿と,期待される日本人像をあわせて探求したい,との発想にもとづいて,一九七七年,九月十六日から三日間,メキシコシティにて開催されたイベントは,マスコミ一社の事業としては異例の規模となり,爾後の海外子女教育,帰国子女教育の振興に多大の貢献をすることになる。

 毎日新聞がこの大シンポジウムを実現するに至ったプロセスには私がらみでも三つの伏線がある。

 ひとつは,当時,毎日新聞編集委員であった旧知の山崎宗次氏が偶然メキシコを訪れ,生みの苦しみの頂点にあった学院関係者の利害,寝食を忘れた努力に打たれて,日本人,日系人,メキシコ人をすべて迎え入れようとするこの新構想学校を成功裡にスタートさせたく,当時の平岡社長を説きつけるとともに,海外子女教育振興財団の設立当初から交遊のあった私に支援を求めてきたこと。

 もうひとつは,山崎氏を動かした日系コロニアの指導者の一人ドクトル村上勲氏と,一九六四年,移民担当の毎日放送プロデューサーとしてメキシコを初訪問した時から面識があったことである。

 これらの伏線の波及効果は一切省くが,ともかく協力の末に,主なバネリストだけでも城山三郎,深田祐介,黒沼ユリ子,中川秀恭,山口昌男,十時厳周,国弘正雄,生方泰三氏など文化界,学界,財界代表に,文部,外務の担当官が挙げて参加し,その成果は「新国際人の出現」のタイトルで毎日新聞から出版され,国の内外の理解が一挙に進み,日墨学院の評価も急速に高まった。

 二回目から,現在の「国際人育成」がメインタイトルとなったこのシンポジウムは,二年後の五月,開会式に大平首相を迎え,帰国子女の受入れのため文教当局の特段の支援のもとに開設された暁星国際学園を主会場として行われた。

 メキシコにならって三分科会方式で展開され,磯村尚徳,渡部昇一両氏と私がそれぞれの座長として討論を進め,詳報は「国際派主流宣言」として,三人の連名でリクルートから出版された。

 このシンポでは,従来,指摘されていた発展途上国在留の日本人の現地人蔑視のビヘイビアが,ニューヨークをはじめとする先進諸地域へも拡散し,アローガ

ントになっていく日本人子女の実情が,政府派遣教員から報告されたことが印象に強く残った。

 三回目は一九八二年のデュッセルドルフ。欧米での最大規模の日本人学校で開かれたこの時は,私を含めて磯村,深田,渡部,黒沼諸常連に加えて,私学関係者が多数パネリストに加わり,討議の外に教育相談,進路指導を実施し,参会した父母から好評を得た。この回では討議の内容もさることながら,初日の懇親パーティの席上,ヨーゼフ・キュルテン・デユツセルドルフ市長が″わが市の半分は日本から来た企業の税金で支えられている。その企業が安定的に操業するのに,同伴子女の教育の充実が必要なら,市はいつでも最大限の協力を惜しまない”と,語ったことが忘れられない。

 四回目は国内のショート・プログラム。

 五回目は世界最大の日本人学校のあるシンガポールであった。

 私が担当した海外子女教育の分科会では派遣教員の質の問題が再三提起され,それに因んでパネリストの日下公人氏はいかにもエコノミストらしく,ユーザーが望まないような教育現場なら存在意義はない。日本人学校はコミュニティ・スクールだから,コミュニティには開設する機能も,つぶす自由もある,との過激な発言もあった。

 この地の有力実業家夫人で,多くの評論著作を持つ胡暁子さんからは,経済の効率だけでしか東南アジアを計ろうとしない日本が,早く態度を改めて,文化の面でも協調しなければ,遠からず手痛い報復を受けるだろう,と発言があり,日本人として東南アジアに生きている体験からにじみ出る重味を聞く者に与えた。 六,七回の国内開催のあと,昨年九月シンポジウム発祥の日墨学院が十周年を迎えたのを記念して,再びメキシコで行われた。十年前のパネリストは私と慶応の十時教授と現地の黒沼ユリ子,カルロス春日両氏くらいであったが,学校は高等部を持つまでに発展し,次期大統領が内定している現職閣僚が,子供をすべてこの学院に入れるほどメキシコ社会での信頼が厚くなっていた。

 しかし,晴れの舞台には仕掛人であった山崎宗次氏の姿はなかった。

 十周年シンポに向けて,準備が大詰めに入った溽暑のさなか,彼は急逝した。 八回目の,日墨学院での再度のシンポは,まさに彼の鎮魂の催しであった。