ある教師の経験

日本の学校への提言

前女子学院中学校高等学校校長 大 島 孝 一

39号巻頭言(1991年7月20日発行)

 ある学校で,登校拒否の生徒の面倒をよく見ている女の若い教師がいた。Hさんというその教師はカウンセリングなどのような訓練を特別に受けてきたわけでもないのに,ごく自然にその生徒に対応しているのである。何か特別の経験でもあるのかと聞いてみたら,彼女自身の″登校拒否″の経験から学んだものが大きいというのであった.

 Hさんは小学校のとき,両親と一緒にニューヨークで生活したことがある.学校は,地元の公立の学校に通っていた。子どものことだから言葉もすぐに覚えて,学校生活に慣れるのに苦労はなかった.ところが,あるとき急に学校に行くのが嫌になった.朝,家を出ると足が学校に向かないで半日ばんやりと公園でリスを相手にして過ごすということが何日か続いたという。

 それは,Hさんの述懐によれば,自己嫌悪に養われたというのである。普通の授業は何も問題はなかったし,友だちも担任の教師とも,ごく自然に溶けあっていた。ところが,教室で子どもたち一人ひとりが自分の意見を言葉にして出すような場面のとき,そもそも自分の意見というものをもっていない自分を発見したのである。教師の考えに賛成でも反対でもかまわない。「私はこう思います」と自分の意見を出したくても,そもそもそういうものがなかったというのである。

 やがて気が変って,Hさんは学校に行ってみた。それは,公園に逃げこむ毎日に飽きたのか,やっぱり学校が懐かしかったのか,ともかく自分の気持ちを整理するということもないままに何となく教室に戻ってきた。そのとき,担任の教師から怠け休みを咎められるかもしれないと彼女は半ば覚悟していた。ところが,意外なことに披女は咎められるのではなくて,かえって褒められたというのである。それは,自分の意思で,「学校を休む」という選択をしたというHさんが,これまでのHさんと変わったことを,担任の教師が評価したのである.そのとき,彼女はすでに ″登校拒否”を卒業していたことを自覚するのであった。もちろん,それ以後は自分の意見をそれなりに発表することができるようになって,学校生活はもと通り順調に進んでいった。

 Hさんが初めて教師として勤めた学校は,東京ではいわゆる”進学校”という評判のある中・高併設の学校であった。 中学校に入学する生徒の九〇%は,そこの入学試験を受けるために塾に通うか,そうでなければ家庭教師がついていたという。逆に言うと,それだけのことをしなければ,この学校の入学はおぼつかないというのが,一種の常識になっているようだ。Hさんが出会った生徒は,そういう状況の中で自分を取りもどそうとして戦っているのであった。

 ある観察によると,その学校に入学しておよそ半年の間は,新入生の挙動がきわだって目につくというのである。それは,どこにもありがちな,新入り者のぎこちなさばかりではなく,受験体制の″後遺症”のようなものから脱却できないでいる姿であるらしい。つまり,すべてのクラスメイトがライヴァルに見えて,自分がどの辺の位置に立っているか,彼らが自分をどう評価しているだろうか,そして教師の目をたえず意識していることが態度に見えてくるというのである。ごく,おおまかに言うならば,日本の学校教育は受験体制で子どもたちを台なしにしてしまっているということになる。大学の入学試験を頂点とする競争が,高等学校ばかりでなく,中学校にも,そして小学校や幼稚園にまで及んでいるのが今日このごろのありさまである。

 ここで,いわゆる受験体制が諸悪の根源だとする議論はさておき,私はむしろ,ここに日本の独特の文化現象というものがあるのではないかということを考えてみたい。幼いHさんが経験したのは,一種の文化ショックであって,日本人の生活原理がまだ国際的にも適用しないまま残っていることを物語るのだと見られなくもない。それは,東洋と西洋との文化の質の違いということばかりでもない。個性を育てることを極度に嫌ってきた,日本の学枚教育のある種の伝統があるのではないだろうか?例えば,服装や女の子の髪型,甚だしきにいたっては男の子の丸刈りにいたるまで,学枚が規制することに疑いをもたない親たち,教師たち,校長たち,そして教育行政官たちの一人ひとりは,そもそも教育というものをどう考えているのだろうか?

 例えば,ここにあげた”登校拒否”のような場合,日本ではしばしば「怠け休み」「ずる休み」という捉え方をするようだ。それは,子どもの側の事情や動機,あるいは必然性などの配慮は全くしないで,「非行」のイメージをもつ”登校拒否”というラベルを貼ってしまうということはないか?Hさんの担任の教師のように,教育の課題だという捉え方ができないのはなぜだろうか?

 Hさんが,海外の学校の経験で学んだことは,実は何も驚くようなものではないのだ。私たちはすでに「教育基本法」をもっていて,その前文に

  われらは,個人の尊厳を重んじ,真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに,普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない.

という文章が掲げてあることを思いおこしたい.そして,日本のいたる所で本来の教育を求めている子どもたちの声に答えようではないか.