国際理解の教育を

体験を通して

東京学芸大学海外子女教育センター長  木 庭 修 一

8号巻頭言(1981年2月1日発行)

 現在の海外子女教育や帰国子女教育について国をあげて考えるようになったことは誠によろこばしい現象である。海外子女や帰国子女の教育は単に日本の教育に適応させることだけでなく国際理解教育の面から考えなければならない。現今,我が国が主体牲を堅持しながら国際社会でよりよく生き,諸国民との相互協力を実現していくために,国際性を高め,外国との関係を改善していかなければならない。そのためには国際理解と国際協力が必然的なものである。昭和五十二年七月,日本ユネスコ国内委員会が外務,大蔵,文部の諸大臣の提言「急速に進展する国際社会に適切に対処するためには,豊かな国際性を育てるべく,学校教育,社会教育を通じ,国民の身近な場で,国際理解のための教育・実践活動を活発に発展する必要がある」(文献,学校における国際理解教育・日本ユネスコ国内委員会参照)をしている。このように国際理解教育が今日強調されている中で,海外子女,帰国子女の持つ異文化間に育った経験は生かされなければならない。

 わたしは今の子どもは幸せと思う。このように国を挙げて全力投球しているからである。わたしは大正七年に米国で生まれ,十二才まで米国の公教育を受けた。日本語学校にも二年程通ったが,八時間の公教育外の一時間の日本語教育はわたしには無意味であった。日本に帰るという前提もなく,単に親のすヽめで通っただけである。現在,在外教育施設での教育は日本に帰ることを前提としているため子どもたちは真剣である。昭和四年に米国から一家が引揚げたが,いきなり日本文化に接し,そのカルチュラルショックは大きかった.間題は教育で,ある種の期待をもっていたが,日本語のハンディがあり,六年生でありながら一年生に編入させられた。とても我慢できないが,成績によってはスキップさせてくれるということで一応納得して登校をした。当時の小学生は久留米絣に下駄。わたしは背広に靴,このような服装は男の先生だけで奇妙に見えたのであろう。その上,言葉がわからないので「アメリカ人が来た」とののしられた。はじめは学校になじめないので登校するのもいやになり,母親から叱られていやいやながら通学した。家族には年寄りがいて躾

が厳しく,日本のマナーは仕込まれたが,切角英語ができるので兄弟で英語を話し合うようにすすめら

れた。今でいうパイリンガルだったのであるが,自分はそれどころではなく,日本語の習得に懸命であった。現在パイリンガル教育が研究されはじめたが自分は高学年で帰って,それが脳裏の一角に潜在的に保持され現在はそれが役立っている。学校の担任の先生が幸いにも立派な方で,わたしのことを真剣に考えて教育をしてくれた。教師,本人,家族が三位一体になって教育に取り組んだために三年生にスキップできた。先生はわたしの良い面を引き出してくれたため一年半で適応してクラスのトップになった。それからは順調に進学をし今日に至った。しかし,今でも考えることは,国語や会話の能力が劣っているように思われるが語学は不自由していない。わたしは日本の教育を受けて良かったと考えている。これからわたしと同じ環境で帰国する子どもがふえてくる時代には立派な先生にめぐりあうこと,母親が教育者でなくてはならないし,本人が十分やる気を出す強い意志をもっていることが大切である。

 現在,教育で問題になっている「落ちこばれ」をよく耳にするが,これは教師側としても考えなくてはならない問題であろう。人間は情報を得る手段として目・耳・口・鼻等の器官があるが,それらのものが十分に能力を発揮しているか疑問である。例えば,もうの方は耳が眼と耳の二つの力を発揮し,ろうの方は目が耳と眼の二つのカを発揮している。われわれはこの両様能を十分発揮することが大切である.教師は子どもに対して,よく見る,よく聞くように指導して行くことが必要である。わたしは進学の経験の中で,もっとも勉強したという感じは日本に帰った当初であった。とにかく解るようにならなくてはという切実な望みがあったからである。窮地に陥ったときに負けない体力と持久力が大切である。わたしの今日あるのは小学校の恩師のおかげりである。

 派遣の先生や帰国された教師は小さな悩みをもっている子どもの気持がよくわかる立場にある。したがってこれらの子どもにとって立派な先生として活躍してくれることをのぞむものである。尊い経験をもったこれらの子どもは次代の国際の舞台で活躍できる素地をもっている。それを育てる教育こそ国際人をつくることになる。先生方のご活躍をのぞみます。